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私の母方の祖母は今年の6月4日虫歯の日に95歳の大往生でなくなりました。
私の両親は共働きだったので幼少時代は、その祖母に育てられました。 保育園でフジテレビの人気子供番組「ままとあそぼうピンポンパン」という番組に 出演するときも、他の子は皆母親と出演しているのに私の母は仕事を休めなかったのでおばあちゃんと出演しました。 みんな若い、ママといっしょなのにわたしだけ、おばあちゃんだったのが当時恥ずかしかった記憶があります。 最近のおばあちゃんは、若い感じの人が多いですが私のおばあちゃんは、見た目もしわだらけのどこから見ても本当におばあちゃんでしたので。 今回、「佐賀のがばいばあちゃん」を観て私の祖母もがばいばあちゃんだと思いました。 金沢の山奥の炭焼き小屋の家に生れた祖母は2歳の時に父親を10歳で母親を病気で亡くし親戚に育てられた苦労人です。 冬になると雪深くなる金沢の山奥の村では祖母が子供の頃、よく病気で幼い子供が死んだそうです。 子供が病気になったので、自分も幼少の身でその子を町の医者まで、おんぶして連れて行く途中背中で死んでいた話。 その子を焼き場までおんぶして行った話を聞いてその想像を絶する生い立ちに驚かされました。 その後、大阪の医者の家に奉公に出され「おしん」の幼少時代みたいに働きました。 だからおばあちゃんは、金沢弁と大阪弁がちゃんぽんな言葉です「そやさかい」とか言います。 医者の家で奉公されたせいかお医者さんが好きで年をとってから、内科、整形外科、耳鼻科、眼科、接骨院と精神科以外は、毎日通うことが日課でした。 同じ金沢出身の銀細工職人だった祖父が東京で修行していて、所帯を持ちたいというときに上京して、東京の下町で所帯を持ちました。 東京にあこがれて上京した祖父は当時のモボ(モダンボーイ)で新婚当初、浅草でよく「たまつき」(ビリヤード)に行っていて祖母を悩ませたそうです。 東京人を気取っていた祖父は金沢弁は使わず東京の下町の言葉を使っていたのを覚えています。コーヒーはコーシーでした。 江戸っ子みたいですね。 祖父は関東大震災を経験しているのでちょっとした地震があっても「大丈夫、関東大震災ほどではないから」と落ち着き払っていた人でした。 祖母は太平洋戦争のさなかには東京大空襲の戦火の中を逃げた経験者です。高温で溶けたお皿も、昔の家の縁の下にあって祖母が見せてくれました。 金沢に疎開中、買出しに行った帰りに山で、雪崩れにあったのですが子供達のために生きなければと必死で、雪の中から這い出して帰ったと言ってました。 気丈なひとです。 職人だった祖父は貧しく、戦後も決して楽ではない生活でした。 私が長女を出産して祖母が病院に来たので。同じ部屋で38歳で初産の人がいて安産だった話をしていたら、祖母が末っ子を40歳の時に妊娠したのだけど高齢だったし、あんまり貧乏だったので、産もうか迷った。と言ってました。その話をその末っ子の叔父にしたら「知らなかった~。そうだったんだ。そのときおばあちゃんが中絶してたら、僕はいなかったんだ。貧乏なのに、産んでくれて良かった。」と少し青ざめた顔で言ってました。 私は小学生の時に、寄り道をして帰ったとき。「誘拐でもされたのかと、心配した」と泣きながら言い、学校や近所の家に行って探し回ったことがありました。 そんな大事になっているとは知らないでいた私は素直に反省できなくて、すねていた記憶がありますが後で、泣くほど心配させて悪かったなと思いました。 日暮里に住んでいた木村伊兵衛さんという写真家の孫と私が親友だったので木村氏と孫と私と3人で上野の寛永時にお花見に出かけました。 知らない間に、遊んでいる写真を撮ってくれていてその後すぐに、木村氏が亡くなられたのです。 しばらくして、その友人がおじいちゃんの、遺作展示のパーティがあるからと誘われたのですが、よそいきの服が無かったので祖母が、ちょうちん袖のお嬢さん風のワンピースを買ってきてくれました。それを着て、パーティに行ったら運動靴のつま先に穴が開いていて恥ずかしかったことと知らないうちに撮られた写真がおおきなパネルになって展示してあってその写真で着ていた服がダサくて恥ずかしかったことが忘れられません。 祖父が亡くなったときに祖母はショックで寝込んでしまい。 入院した病院で、偶然 木村伊兵衛さんの奥さんが同じ部屋に入院されていました。 同じ町内で町内会の旅行へよく二人とも行っていました。 祖母は、物の無い時代に育った人です。それも極貧の経験があり、包装紙や紐、広告の裏紙など捨てないでとっておく人でした。 でも、がばいばあちゃんみたいに節約上手でけちでなく、出すときには気前よくぽんと出す性格で、その凛とした生き方が好きでした。 自分は両親が早死にだからきっと長生きしないと言いながら親戚中で一番の長生きだったおばあちゃんの生き方から私も学んで生きていくことが育ててもらったおばあちゃんへの供養だと思っています。 |
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